
その年の8月17日記録的な猛暑の中、駆け落ち同然で一緒になり、貧しくとも幸せな家庭を築いていこうと誓った若い夫婦に待望の長子が産まれた。
その夫婦は、子供の名を小次郎と名付けた。
本来、長男の名前ならば、小太郎と名付けるべきであろうが、この夫婦にとって恩人とも言える祖父の名を附けての小次郎だった。
小次郎にとって父が買ってくれたサッカーボールは宝物で、夢はプロのサッカー選手になる事だった。
その夢を一番応援してくれていた父親が交通事故で帰らぬ人となった時、夢は、決意となった。
同じ年も師走の12月29日若堂流空手宗家の第3子、次男として産まれた子供は、健と名付けられた。
とりわけ、手を駆けなかった訳ではなかったが、余り周りに関心を示さない子供だった。
何を与えても喜ぶわけではなく、言葉も少なかった。あまりに反応が少ないので、病院に検査に行ったことがあったほどだった。
けれど、話せないと言うことでもなく、動作が鈍いと言うことでもない。教えたことは人並み以上にこなし、空手に至っては幼いときからその天賦の才を見せていた。
だから、家族一同は、心配はしながらも、それを健の個性として受け止めた。
そんな二人が出会ったのは、小学校4年の小雨の降る夏の終わりの事だった。
あの日まで、健の記憶の中に世界は存在していなかった。
周りを取り巻く映像が音を立てて流れていく・・・そんなイメージしか残っていない。
そんな中に不意に小次郎だけが現実の質量を持って現れた。
走ってきた日向小次郎は、まっすぐに若島津健を見る。
健の心の中に生まれて初めて芽生えた感情は「欲しい」と言う独占欲。
けれど子供の感情の中で、それは、はっきりとした形にはならなかった。
見ていたい・見て欲しい・側にいたい・強くなりたい
そんな感情が強かったように思う。
そして、健は小次郎と同じ世界を歩き出す。

中学になって東邦学園に日向小次郎を追いかけてきた時は、まだ自分のやっかいな感情に気付いてはいなかった。
けれど、寮に入り同室になると、小次郎の日常が驚くほど近くなる。
そして、小さな出来事の1つ1つが、軋むような感情の螺旋を作って健を追いつめて行く。
欲望は、強靱な自制心の鎖に繋がれ、年を重ねた。
高校に入り、続いてゆく日常。
翼はブラジルに渡り、日本の学生サッカーの頂点を守ることが、東邦学園の特待生でいる事への布石だった。
そんな足かせが、高2の秋に消え去るときが来た。
小次郎の母の再婚。
そして、特待生でいる枷は、消え失せる。
小次郎が、翼や、若林や、岬のように海外へ出ていくことを、健を捨てていってしまうことを止める枷は消え失せた。
何が原因だったのかは覚えていない。
言い争い、つかみ合いの喧嘩になって、気付いたときには、健は小次郎をねじ伏せるように抱いていた。
レイプしたと言っても過言ではないかも知れない。
気を失って眠ってしまった小次郎の体を清めながら、健は涙を流していた。
それは、後悔でも、絶望でもなく、何か安心してしまったのだというのが一番近い涙だった。
その夜、健は一睡もせず、小次郎の目が開く時を待った。
小次郎から言われるであろう罵倒も拒絶も承知して、覚悟を決めるには十分な時間だった。
次の日の昼過ぎになってようやく小次郎はゆっくりと目を開いた。
焦点の定まらない瞳を健は心配げに覗き込んだ。その綺麗な眼球に、情けない姿が反射している。
「・・・日向さん」
健はそっと呼んでみる。
小次郎の瞳は2度3度瞬くと、またゆっくりと閉じてしまった。
「日向さん?」
また眠ってしまったのだろうかと、思ったほど静かだった。
小次郎の唇が、小さく動く。
「・・・み・ず」
「あ、はい。ちょと待っていて下さい。」
健は、コップに水をくんでくる。
「身体・・起こせますか?」
「ん・・・・・ツッ!」
少しの力を入れただけで、痛みが走ってしまった小次郎の身体を健は慌てて支え起こす。
「大丈夫ですか?」
気遣いながら差し出したコップに手を添えて、口元に流す。
コクンと飲み込む音がずいぶん大きく聞こえた。
長い沈黙に思えた。
たった一言の死刑宣告を聞くための沈黙。
飲み終わったコップを突き返されて、それを受け取った健はいよいよだとかまえる。
「・・・・今・・・何時だ?」
「・・・昼の・・2時を過ぎました。」
胸苦しい動機を抱えたまま、健は小次郎の言葉を待っているのに。
「練習・・休んじまったな。」
「風邪を・・こじらせてしまったと・・・伝えました。」
その問題に触れない言葉だけが出てくる。
「そうか・・・」
そしてまた沈黙が流れる。
目を覚ましたのに、小次郎は何も言わない。
健が一番聞きたくない・・・それでも聞かなければいけない言葉なのに。
小次郎が沈黙するのならいっそのこと無かった事にしてしまいたかった。
けれど・・・・
「ひゅう・が・さん。」
健は小次郎の言葉を聞かずにはいられなかった。
たとえそれが拒絶の言葉でも。
「・・・俺に、何を言わせたいんだ?・・若島津。」
小次郎の静かな目が、ベッドサイドに立ちつくす健を見上げる。
「・・・・だって・・・俺は・・・」
健は言い淀む。
拒絶され、罵倒される。それが当たり前な行為を自分は小次郎にしてしまったのだ。
それなのに、目の前で、まっすぐ見上げてくる小次郎は、静かすぎた。
じっと健を見ていた小次郎が小さくため息をつく。
「・・・もう・いい。」
「?・・・日向さん?」
「今回のことは、単なる事故。間違いだったんだって思って忘れてやるから。だから・・・もう・・・」
小次郎のまっすぐに開かれた瞳から涙が流れた。
ぽろぽろと、止め度無く流れていく。
「日向さん?」
責めることもなく泣き出した小次郎に健の方が慌ててしまう。
「どう・・して?日向さん。何でそんな風に泣くの?悪いのは俺なのに。あなたに酷いことをしたのは俺なのに。」
変わらず泣き続ける小次郎を健は抱きしめた。抱きしめながら健の表情も歪む。
こんな・・・こんな風に泣かしたいわけじゃなかった。
「あなたは俺に、出て行けって・・・もう二度と顔も見たくないって怒っていいんだよ!!」
そう言いながら、健は小次郎を抱きしめる腕に力を込めた。
「・・・事故じゃない。間違いでもない。何時か、あんたを抱いてしまう。耐えられなくなる。そんな予感はあったんだ。
でも、俺はあなたの側にいたかった。あなたの親友としてあなたの側にいられれば、こんな感情を抑えておけると思ってた。なのに・・・」
数分の時を流して、健はようやっと小次郎の身体を自分から引き離した。
「本当に、済みませんでした。俺、あんたの前から消えるから。二度と迷惑はかけませんから・・・だから・・・。」
健は思いを断ち切るために小次郎の顔を見ずにその場から離れようと立ち上がった。
離れようとした拍子に服の端が引っ張られた。
振り返ると俯いたままの小次郎の手が、健の服の端を握っている。
「・・・いい・・」
小次郎の声。
「ここに居ていい」
「日向さん・・・だって・・・」
「おまえが・・・俺を好きで抱いたんならいい」
小次郎は顔を上げようとはしない。
「でも俺がここにいたら、またあなたを抱いてしまうよ。」
小次郎の身体がビクリと揺れる。
健はもう、思いに決着を付けたかった。
「俺は、あんたしか欲しくない。」
「いい・・・よ。・・・もう、いいんだ。」
「日向さん。」
何を「いい」と言ったのか、健には判らない。
けれど、その時の小次郎の表情は、微笑にも、あきらめの表情にも見えた。
小次郎の手が、健の髪を掴み、そっとキスをした事で、健は、手に入れた幸福に、全ての不安を覆い隠した。
天よりの御使いは、人の地へと降臨する。
人の中に生まれ、人として生き、罪を犯し死んでゆく、神の子羊。


