
この春は、中学三年の夏のジュニアユース大会からまさに三年ぶりに、今度はユースとしての欧州遠征となった。
15歳の年に戦った、ヨーロッパの強豪達とは、2年振りである。
彼らのその後は、ドイツ留学をしている若林や、サッカー協会、東邦学園理事である小泉さんからももたらされている。
誰も、彼も、この大会に入ってきていた。
それに加えて、アメリカや、カナダ、ブラジルなどの強豪が参加してくる。
岬からは、アフリカから出場するチームのデータも届いていた。
ワールドカップに向けての布石。
誰もが、その意味を噛み締めていた。
空港ロビーに出て来たとたん流れるのは、英語、ドイツ語、フランス語。
目の前を遮る金色、茶色、銀色の髪。
外国に来たという感慨もひとしおの中、全日本Jr一行は、早々にバスに乗り込んだ。
行き先は、西ドイツ・ハンブルグFCのホームグラウンドだった。
ここには、日本から若林源三が留学している。
若林は、この試合の後、日本ユースに合流する。翼も、留学先のブラジルから送れて合流してくる予定になっている。ただ、いつもの事ながら、岬との連絡は付いていない。それでも、そろそろ現れそうである。
ジュニアの時は、FC戦による代表で行われていたが、今回の西ドイツチームは、西ドイツに点在するFCから人材を集めての、統合チームとなった。他の国も同じである。どの国も、ワールドカップに合わせているのだろう。
そのため、対FCにおいての練習試合が、可能だった。
日本としては、若林の留学先としてのレベルと共に、皇帝、カール・ハインツ・シュナイダーの成長を目の当たりに見たいという下心があった。
「よぉ、来たな。全日本。第一戦目は俺達とだ、楽しみにしてるぜ。」
相も変わらぬ横柄な言葉と、とんでも無く横に広がったガタイが出迎える。
「若林さん!!」
小学校時代のチームメイト達が、再会に走り寄る。
その後ろに続いた小学生だった頃の彼を知る者は、皆一様に眉をしかめた。
「貴様・・・ますますトドになったな。」
小次郎は、つい・・・ボソっと・・・言った。
自分の処の若島津も急に伸び始めて大きくなったとは思うが、若林は、それより一回りも大きかったのだ。いや、大きくなったと言うより厚みを増したと言うところだろうか。
大きさだけで言うなら次籐が居るが、これはまあ、出会ったときにはすでにそれだけの体格を持っていたので気にならなかったが、若林は違う。
思いっきり嫌そうな顔をした小次郎を見て、若林は人の悪い笑みを浮かべる。
「ふ・・・ん。おまえはまた随分と美人になったよなぁ。」
くいっと小次郎の顎を上げる。
「何しやがる!!」
小次郎はすぐさまその手を振り払う。心なしか、顔が赤い。
そんな二人の光景を、若島津は表情こそ変えていないが、オドロ線を背負うような雰囲気を漂わせていた。
周りを取り巻いていた者達には、何とも怖い光景だ。
「ところで若林さん。シュナイダーは来ていないの?」
「ああ、あいつはこの大会前に、チームの移籍が決まっていて、その手続きで練習には出ていないんだ。」
「え?」
そこにいた全日本メンバーの表情が、驚きを隠せない。
「おい、それじゃぁ、明日の試合は?!」
一番楽しみにしていた小次郎が、若林に問いかける。
「大丈夫だ。おまえ達が来ることをシュナイダーに話したから、移籍が、明日付けになったんだからな。あいつも、久しぶりにおまえ達と戦えることを楽しみにしていたぜ。」
その言葉に、全員の意気が上がる。
そんな和やかな中、不意にその衝撃は、起こった。
空間を断ち切られたような衝撃が、襲ってきたのである。
健は慌てて周りを見る。この感覚は、みんなが受けているのかと思ったのだ。
けれど、周りの者達にその気配はない。変わらぬ会話が続いていた。
ほっとすると同時に、その衝撃を引き起こした圧力が、在る一点から流れているのに気付き健は振り向いた。
その先には、林の木々に隠されるように人が一人立っていた。
光をはじくような青い瞳。金色の髪――――・・・カール・ハインツ・シュナイダー?!
健の中で、そう思い立った瞬間、その人影は小さな笑みを浮かべ、木々が作り出す影の闇の中に消えていった。
「おい!若島津?」
小次郎の声が、健を現実世界に引き戻す。
「え、あ。はい。」
気付くと、バスの方から集合がかかり、メンバー達が、ゾロゾロと移動を始めていた。
健もすぐにその後を追った。
さっきの衝撃が抜けない・・・
心のどこかに決定的なマーキングをされたようにじくじくとした物を残した。
あれは、確かにシュナイダーだった。
それなのにあの違和感。
健の神経のどこかで、警戒音が鳴り出した。
『シュナイダー・・・』
「ふぅ、」
風呂から上がった小次郎が大きなため息をついてボスンと備え付けられたソファーに腰掛けた。
ホテルに到着した俺達は、日程を確認した後、それぞれの部屋に引き上げた。
夏はまだ明るい時間だった。小次郎は、荷物を置き、ベットや風呂を確認した後、窓の外を覗き込んだ。
そこには、フィールドの1/3くらいの芝生の広場と、大きな大木が、丈の低い庭木に迷路のように囲まれていた。
「若島津。」
芝生の広場を見つけた小次郎は、実に嬉しそうに健に向き直った。
「サッカーしようぜ。」
下に降り、軽くパス練を始めた二人だったが、しばらくすると、俺も、俺もと松山達がやってきて、流石に試合や、いつものような練習が出来るスペースがないことから始まったのは、「玉蹴り」だった。教科書に載っている、平安時代の貴族なんかがやっているアレである。
さすがに、そのボールのスピードは、「玉蹴り」などという可愛い物などではなかったが。
とりあえずボールを蹴れたことに満足したのか、小次郎は食事を済ませ、部屋に帰ってきたとたん風呂場へと直行していた。
「また、いつもにまして長いお風呂でしたね。」
「ん――、あの洋風の風呂って嫌いなんだよな。身体を洗って、風呂釜を洗い流してから、湯を張り直さなくちゃならねぇだろ?
ったく、入った気がしねぇぜ。」
「そうですね。・・・・と、もしかしたら湯を張ってゆっくりした後、出がけに身体を洗って出て来るって言うのが入り方かも知れませんよ。」
「・・・・・そうかも知れねぇ。けどなぁ、やっぱり汚れを落としてからゆっくりしたいぜ。」
小次郎は、また小さくため息をつく。
せっかくの大好きな風呂の勝手が違って「疲れた」と言う感じだった。文句と言うよりも愚痴に近い。
そんな小次郎がとても愛おしく思えて健は後ろからそぉっと抱きしめた。
「若島津?」
肩口に絡みついてきた腕に手を掛け、訝しげに名を呼ぶ。
健は、そんな小次郎の顎をとらえ口づけた。
「ん・・・・っ」
長い口づけから解放されると、小次郎は少し目元を赤らめながら健を睨む。
「っかしまづ、おまえ・・」
そんな視線を感じながらも、目を上げることなく、健はそのまま小次郎の肩口になつく。
「すいません、・・・・大丈夫です。判ってますよ。何もしませんって。」
当然である。
この遠征中に事になどお及べない。SEXは小次郎の身体に随分な負担を強いる物なのだ。
ちょっと加減を間違えると小次郎は半日は動けない・・・・・と言うことも多々あった。
昼間のことがあって、少し動揺を残しているみたいだった。
健は、表情に載せないようにため息を付いた。
「ったく。さっさと寝ちまおうぜ。」
「はい。お休みなさい、日向さん。」
ベットに入ってサイドランプを消すと、程なくして寝息が聞こえてくる。
どうやら思ったより疲れていたようで、健も深い眠りに落ちて行く。

シンとした夜の静寂が、弾けるように変化した。
「!」
健は突然変化した気配に飛び起きる。
何かが起きていた。
尋常ではない大気が満ちている。
『∂⊇∈§∝∵』
キン・・・と耳が鳴るような声とも音ともつかないものがこめかみに響く。
「つ・・・・」
その波動が中庭の方から流れてくる。
それは、昼間に感じた衝撃と類似するものだった。
中庭に面した窓から庭を覗き込むと、中庭にあったひときわ大きな木の処に人の気配があった。
『降りてこい』
今度はきちんとした意味が響いた。
健は、不快に眉を寄せながら、きびすを返し、小次郎の眠りを確認する。
小次郎は、身じろぎもなく寝ている。
それを確認してから健は部屋を出た。
庭に降りると月明かりにその人物が映し出される。
「シュナイダー・・・・」
昼間、グラウンドの木陰に立っていたのは、やはり彼だったのだ。
けれど、2年前の彼とは、受けるイメージが微妙に違う。
彼の青い瞳と、光を滲ませるように輝く金髪が、月明かりを受けてまるで、みずから光を放っているようだった。
そしてこの、辺りを覆っている気配はなんだろう。
今目の前にいる物は、本当に人間なのか・・・・そんな疑いすらが浮かんでくる。
「久しぶりだ。」
「ああ、2年振りだな。」
シュナイダーの口元が、笑むように歪む。
「いや、私達が、互いを知っていたのは、もっと昔からだ。」
「・・・・俺は、3年前以前に日本を出たことはない。」
「そうか?」
彼は、健を知っている。そんなイントネーションを含ませた言葉だったが、とりあえず、若島津 健として生まれてからの記憶に心当たりはない。
「どうやら、目覚めきってはいない・・・という感じだな。」
そう言って目を伏せたシュナイダーの後ろから、闇が形になったかのように人が現れた。
「ならば問題はないだろう。」
そう言った人物に見覚えはない。今日グラウンドで紹介されたハンブルグFCの中にもいなかったと思う。
「ああ、とりあえず一戦目は・・・な。」
意味の分からない言葉の応酬に、健は、不快感が募る。
「シュナイダー、そいつは・・・?!」
「彼は、ヘフナー・・・今度私が移籍するFCの正ゴールキーパーだ。」
そうは言いながら、後ろ手に彼の首に回した腕が、それ以上の関係であることを物語る。
シュナイダーとヘフナー・・・その寄り添う姿が、月明かりの中そのまま光と闇を具現する。
光と闇・・・・天使と悪魔。
そう考えていくうちに、頭の奥が、痛み出し、健は、目をしかめた。
そんな健の様子に、シュナイダーは笑みを深くする。
「明日は、楽しい試合になりそうだ。私は君を歓迎し、全力を持って君のゴールに球を撃ち込むつもりだ。
君が、僕のことを思いだしてくれるには、それで十分だろう?」
「・・・」
シュナイダーは、健に何かを思い出せと言っている。けれど、それは、思い出してはいけないことではないのだろうか・・・・意識の奥底で、さっきよりも強いシグナルが発せられている。
「どうして・・・何を思い出さなくてはいけないと言うんだ?シュナイダー。」
「私達の本当の姿と、使命・・・・。
これ以上は、今の君に言っても仕方のないことだろう。だからこそ、明日の試合を楽しみにしているよ。」
そう言ったシュナイダーが、もう一人の男に抱え込まれたかと思った瞬間その姿は闇に溶かされたように消えた。
そこにはもう、人がいた気配すらも残っていない。

ハンブルグFCとの試合の当日、空は小さな白い雲を残し、透明な青い空が広がっていた。
この試合こそが、今の自分達の力が通用するかどうかをはっきりさせる一戦だった。
まだ翼は到着していないが、全日本のメンバー達は、それぞれに不安と期待を胸に試合を待ち望む。
健も、とりあえずはこの一戦に集中する。
あの夜のことも、シュナイダーの言葉も気にしている時ではない。
「若島津」
小次郎に呼ばれ、健は顔を上げる。
「何ですか日向さん」
「っ・・・と あ、」
小次郎が何か言いよどむ。
一生懸命に言葉を探している。
たぶん今、健の名を呼んでしまったは物の言葉にするつもりの無かった声だったのだろう。
それとも・・・何か気にかかることでもあるのだろうか?
そう思った健は、とっさに周りを確かめて小次郎に軽いキスをする。
「!」
バッと顔色が赤くなった小次郎に、健はすかさず言った。
「頑張りましょうね日向さん。」
健が、小次郎に極上の微笑みを向けると、小次郎も、苦笑いを浮かべて答える。
「ああ、俺達の実力を見せてやろうぜ。」
そう言い合った直後、周りが一斉にざわめいた。
その元凶は、少し遅れてベンチ入りしたシュナイダーだった。
皇帝然としたその姿は、太陽の下でも2年前とは比べ物にならない。
一種神々しさまで混じっているようだった。
小次郎の視線もシュナイダーに向けられている。
それを確認するように視線を小次郎に向けた若島津は、その眉を顰めた表情に、反対にいぶかしさを感じずには居られなかった。
「どうかしましたか?日向さん??」
「ぁ・・・・いや、何でもない。」
あの言葉通り、シュナイダーは前半からグランドに入ってきた。
先制を取った日本が攻め上がっていく中、シュナイダーは動かない。
他のハンブルグFCたちが止めにはいるのを蹴散らし、小次郎のショットが、若林の身体をゴールポストへと引きずった。
残念ながら、ゴールには入らなかった物の、シュナイダーも、若林も、その成長を実感した。
そして、若林からシュナイダーへとボールが渡る。
シュナイダーを止めに入る日本ディフェンダー陣を諸ともせず、シュナイダーがシュートを放つ。
一瞬、グランドの空気が奇妙に歪んだ。
そして繰り出されたシュートが、まっすぐに若島津に突き刺さる。
その瞬間、真っ白な光が、若島津をとらえた。
白い世界・・・・その幻影が、脳裏に飛び込んでくる。
ズザザザ・・・と、地表をえぐりながら、シュナイダーのシュートの衝撃用に開けたゴールとの空間を引きずられてゆく。
「くっ・・」
健の足下、ラインを踏んでいる感覚が、伝わってくる。
それだけの威力。それほどの力だった。
二度目にシュナイダーのシュートを受けた時、蹴り出す直前の空間の歪みがシュナイダーの特殊な力の一端であると気付く。
そして、それは、着実に、自分の中に忘れ去っていたもう一つの記憶を呼び戻していた。
ハーフタイムにベンチへ引き上げた時間、健は、タオルを頭からかぶり、自分の表情を周りから隠した。
頭の中はシュナイダーが放ってくる力に反応した記憶が、ぱたぱたと流れている。
ふと気付くと、横に小次郎が腰掛けてきた。
「大丈夫か、若島津。」
珍しい言葉だった。
「あんたもね。」
「・・・ああ、」
健は、ゆっくりと息を整えた。試合はまだこれからだ。
後半にはいると、激しさはいっそう増した。
シュナイダーも、早々は、攻め込めなくなってきた。
けれど、シュートが失敗に終わるとボールはシュナイダーに渡る。
後半すぐに、上がり始めたシュナイダーを小次郎が止めに入る。
センターラインで繰り広げられる攻防、ボールを挟み両者の力が激突する。
激突した力は、人間の目には、見えない光となって輪を作って広がった。
2人の動きが止まったかのように見えた次の瞬間にボールは、シュナイダーの足に吸い付いたように奪い取られていた。
すぐに切り返そうとした小次郎の足が、その場から動かない。
今の激突したショックで、小次郎の足は、ジンジンとした痺れに感覚を無くしていた。
ボールをその足下に奪ったシュナイダーの視線が揺れ、まさかという驚きが浮かぶ。
しかしシュナイダーは、そんな動揺を押さえ、ボールを奪い返しにかかる全日本の他のメンバー達を諸ともせず、日本側のゴールへと走って行った。
その先のゴールを守る者は、確かに、シュナイダーの知る「ケン」だった。
しかし、その事がよけいに「まさか」に拍車をかける。
動揺を表に出すことなく、シュナイダーの中に疑問が渦巻く。
この疑問に答えることの出来る者は、未だ目覚めてはいない。
昨夜は、それを幸いと思ったが、たった今撤回する。
疑問と、憤りのすべてを込めてシュナイダーは目の前のゴールを守るキーパー目掛けてシュートを繰り出した。
小次郎を吹き飛ばすキック力が、より強い力を込めて若島津に向かってくる。
それを受けようと正面に向き合ったとき、それはさながら光の玉のように見えた。
それが、ボールを取ろうとした若島津に突き刺さる。
身体の奥に眠る細胞の記憶を呼び覚ますような衝撃が、全身を貫いた。
最後の枷がはずれ、意識が闇に落ち、突き抜けたそこには光の渦が逆巻く。
そして・・・・。
何万分の1秒の幻影が、若島津の中を通り過ぎ、現世の身体は、ボールと共にゴールネットへと引き込まれていた。
ピ・ピーーーーー。
ホイッスルが高らかにタイムアウトを告げた。
結果は、3対1。
その数字は、そのまま世界とのバランスだった。
試合終了の直後、話をする時間もそこそこに、シュナイダーは、移籍先のチームからの迎えとして寄越された車に乗り込んだ。
ぎりぎりまで移籍をのばしたことで、お目付役が付いたという感じだろうか。
その迎えの男はバイエルンFC正ゴールキーパー、昨夜の男だった。
やはり、二人の印象は、変わらない。
シュナイダーの視線が、健と小次郎を捕らえる。
二人に複雑な視線を向けながら、
「日向・・・・健、次は、決勝トーナメントで会おう。そこで・・・・待ってる。」
シュナイダーは、まだ記憶の混乱している健にそう別れを告げた。
言いたいことはたくさんあった。
聞きたいことも。
けれど何一つ整理がつかない。
力の多くが戻っても、未だ自分たちは、人の肉にとらわれている。
人としての生活があり、移動能力も距離は取れない。
この後、バイエルンチームに合流する自分達にも、昨日のように会う機会を持つことは出来ない。
だから、次に合えるのは、決勝トーナメントだった。
「その時は・・・・」
呟きをそこで止めて、車は速度を上げた。

白い白い世界、光さえも闇と同化するほどに他の色の存在しない世界、そんな中突然のコントラスト。
褐色の肌と黒い翼。
強い強い輝きを放つ唯一の存在。
彼はその地にたたずみ、祈るように空を仰ぐ。
「ーーーー。」
自分の声が、大きくその人の名前を呼ぶと、彼は振り向き、微笑んだ。
健は、昨日の夜を繰り返すかのように飛び起きた。
空も同じ色の月の光に満たされている。
健はゆっくりと周りを見回す。
馴染みのない室内は、今自分たちが寝泊まりしているホテルに違いない。
まるで、シュナイダーとの戦い自体が夢だったように錯覚してしまいそうになったが、身体に残る傷や、痛みがそれを否定する。
それと共に、満たされた水が桶の中を揺れるような気持ち悪さが、意識のうえに襲ってきた。
「・・・・・」
べとつく汗が噴き出している。
どうしようもないほどの切迫感が、身体の体温を下げているのか、健は大きく身震いした。
「どうした若島津」
突然眠っているとばかり思っていた小次郎の声がかかる。
驚きながらも、確かめようとした声が、無様に揺れた。
「あ、ひゅう・が・・さん?」
そんな健の声は珍しい。
小次郎はゆっくりと、上体を起こした。
そして健の様子を見ようとして近づいてくる。
小次郎が起きあがった瞬間、背にする壁に映し出された月光の影は、翼に似た姿を作り出す。
その光景は、月明かりが作り出す影のコントラストの小さな悪戯だったが、健のすべてを硬直させるには十分だった。
対ハンブルグFCとの戦いの中で、シュナイダーが見せた幻夢が霧散し、若島津 健の中の空白の部分にケン・ゼーラントが甦る。
「いったいどうしたんだ?」
小次郎は、いつになく不安げな声を出した健を気にしてベットの縁まで歩み寄る。
月明かりは完全に小次郎のベット側だけを照らしていて、かなり近づかないとその表情が見えなかった。
「若島津・・・」
健は、微動だにすることなくその瞳から涙を流していた。
打ちのめされたような表情が、珍しくその表に出ていて小次郎は驚きと共に眉間を歪めた。
そしてそっと健に近づくとその頭を自分の胸元に抱き込んだ。
「どうした?」
小次郎の声は優しい。
なだめるように、その手が健の背をなでる。
なだめられていくうちに、硬直していた健の全身がゆっくりと小次郎にもたれかかっていった。
「どうした。怖い夢でも見たのか?」
健は素直に頷く。
そう、これは怖い夢だ。ただの人であった自分が、人とは違う因果律の上にいたことを知ってしまった。
それでも・・・
健の腕が、小次郎の胴部に回り、強く抱きしめる。
ゆっくりと顔を上げ見上げた小次郎は、宗教画の天使そのままの微笑みを浮かべていた。
『この人を汚してしまった。』
健はその微笑みに、より強く罪悪感を感じて行く。
それでも・・・・
「日向さん・・・」
健は、腕を伸ばし、小次郎の唇を求めた。
小次郎もその求めに応じるように顔を近づけてやる。
長い、長い口づけは、小次郎の身体から力を奪い、小次郎の身体をいつの間にか健の下に横たえてしまっていた。
小次郎は、そんな行動を何も諫めなかった。
もう一度、健が唇を求めてきて、その手が胸元を探ってきても昨日の夜のようにダメだとは言わない。
ただ、健の背に回した手に力を込める。
そうすることで、健のしようとしていることを許してくれる。
そうしてそんな小次郎に甘えながら、もしかしたらの可能性に気付く。
健の記憶が戻ったと言うことは、小次郎の記憶も戻る可能性があるのか?
それとも、もうすでに・・・・
そこまで考えて、健は可能性に目を閉じる。
その夜の月も昨日と同じ色をしていた。
それは、このヨーロッパと言う土地柄のためなのだろうか。
白い月ほど精錬ではなく。
赤い月ほど妖艶ではない。
ただ、言いしれぬ程に不安を駆り立てる飴色の月は、混沌とした現代と、それに続く未来を暗示しているかのようで健は遮るためにカーテンを引いた。
そうして隠してみたところで、すでに時は止まらないとしても。


